御祭神の満仲公は、延喜12年(913年)4月10日鎌倉にて、清和天皇の6男貞純親王の長男経基の長男として生まれ、幼名明王丸、元服して左馬之介満仲と改めた。17才の時、弓馬の達人と言われる程の成人振りであった。
 承平4年、平将門が乱をおこし、父経基は鎮守府将軍に任命され、源の姓を賜った。満仲公も出陣した。また、吾が子頼光、頼信集と度々の合戦に勝ち進み古今無双の武将として名高く、文にも長じ歌道に明るく勅選等にも選ばれ漢学にも精通している。同年唐で学んだ大江惟時が帰国し、昭宣帝より入手した軍書を和文に直し訓閲(きんえつ)集と名付けた。
 朱雀天皇は武門の者に伝えたいと文武両道に優れた満仲公が選ばれ貴重な文献を授けられた。満仲公は只一人難解な書を読破し軍略に役立てた。
 村上天皇は嵯峨野行幸の時、勅命により満仲公は雲の上を飛ぶ雁を射落とし、名を広められた。世の中の無法者を退治したことも戸隠山の鬼退治等の説話から察せられる。攝津国に領地を賜り、満仲公は多田庄新田に居城を築いた。天皇崩御後も朝廷の信頼厚く文武両道で世の中を治め、鎮守府将軍に叙せられた。長徳3年(987年)8月27日74才でこの世を去った。
 満仲公の偉勲は源氏一族の御祖神として讃えられ、源氏の守護神(八幡さま)と共に崇められ、攝津国(現在の兵庫県)と武蔵国(当地)に多田神社御祭神として祀られ、鎮守様として崇敬され、氏子の安泰を守っていられる。
文武両道の神 …… 当時満仲公は、17才にして、弓道の道にかけて達人といわれ21才にして唐より伝わる訓閲集(軍事兵書)を解して武門に広め、世の中を治める指導者となり、後の世に文武両道に秀でた神として崇められている。